
ぼくが社会人1年生の1986年鈴鹿にあるレーシングチームに入社した
そこではグループCカーやF3などのコンストラクター活動のほかに
2輪部門で全日本250ccクラスのロードレーサーもメンテナンスしていた
小僧だったのでほとんどのカテゴリーを下っ端でついてまわれた
とりわけ二輪は2クラスエントリーしていたので後半転がすだけで
精一杯の自分がそのうちの1台を任されてしまった
結局1ポイントも採れずシーズンが終わってしまった
あの時の無力さは今でも忘れない
翌年はそこを退社し東京に戻りカートショップで働いていた時、そのライダーが亡くなった事を電話で知らされた
ぼくはその事でライダーさんから「自分が成長しない事の怖さ」
「結果を創れなかった時の怖さ」教えられた
だから2輪じゃなくても何がしかの形でモタースポーツに貢献することによって「けじめ」としたかった
あれからだいぶ時間がたってしまったけれど、緊張と年2度も予選おちした悲惨な筑波で、今は自分の作ったパーツをつけた車両がいつもトップを走ってくれている
まだまだチューニングカーの空力は始まったばかりなので彼の死を
無駄にしないようにこれからもやり続けようと思う
- 2006/04/06(木) 00:11:02|
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